初めまして。
自分自身との絆を取り戻すカウンセラー、牧沢光莉です。
こちらでは、自分のことがよくわからない、本音がわからない、なぜか生きづらい、変わりたいのに変われない、といった悩みを抱えた方に、本音に気付いて、本来の自分で生きられるよう、サポートしています。
今では、自分との繋がりを取り戻した私ですが、以前はそうではありませんでした。
私自身も約40年アダルトチルドレンとして、自分というものがよくわからず漠然とした不安や恐れ、違和感を感じながら生きてきました。
私の経験から、何かのヒントにしていただけたら幸いです。
簡単なプロフィール
私の両親は、亭主関白で厳しい父と、一歩下がって父を支える母で、いつも忙しく働いていたので、三人姉弟の長女として生まれた私は、大変そうな両親を支えようと、甘えたい気持ちや寂しさを我慢しながらお姉ちゃんなんだからと頑張ってきました。
父を怒らせないように、常に顔色をうかがっていたおかげで、本音にも気付けず、常に正解を求め、世間の常識や価値観が私の基準になっていました。
少しでもみんなと違うことをしたら笑われるんじゃないか、嫌われるんじゃないか、と周りのことばかり気にして、自分がどうしたいかより、どうすべきか・こうでなければいけない、といった価値観が基準となり、それを心から正しいと信じて疑いませんでした。
ですから、結婚してからは夫に、子どもが生まれてからは子どもに、その正解を押し付け、夫や子どもが恥をかかないように、世間から白い目で見られないように良かれと思って、それが愛情のつもりでやってきました。
それなのに夫とは喧嘩ばかり、子どもにはイライラして怒鳴ってしまう。
なんで家族のためにこんなに一生懸命やっているのに、わかってくれないの?
なんでイライラさせるの?と全くうまくいかず、当時の私は、わからない相手が悪いと、まるで自分が被害者のように感じていました。
と同時に、こんなにイライラして怒鳴ってしまう自分に対して、なんで私は夫や子どもに優しくできないんだろう、と自己否定や自己嫌悪が止まりませんでした。
日々の生活に追われて、趣味や楽しみもなく、ただ感情に振り回され、心が休まる時間も場所もない。
私はこのまま人生が終わるのか…、と漠然とした不安や焦りに襲われ、底のない真っ暗な谷底へ落とされるような感覚に陥りました。
このままでは、家族はバラバラになってしまう。
心や体も悲鳴を上げ、もう限界でした。
そんな私を恐怖の谷底から救ってくれたのは、心理学の学びでした。
親との関係性が今の人間関係に影響していること
幼少期に身に付けた思考のクセや思い込みが今の自分を苦しめていること
それらに気付けたことで、少しずつではありますが、不要な価値観や誤った思い込みを手放し、家族との関係も修復され、穏やかな日々を送れるようになりました。
小さな頃に身に付けたたくさんの荷物は、大人になった私には必要なかったのです。
もし、あのまま気付けずにいたら、間違いなく家庭は崩壊し、私自身も立ち直れなくなっていたことでしょう。
あの時、心からのSOSに気付き、自分を苦しめる間違った思い込みや思考のクセに気付けたおかげで、違和感や漠然とした不安の人生から抜け出すことができました。
詳しいプロフィールはこちら↓↓
言い合いをしている祖父母や親を刺激しないように気配を消していた幼少期
忘れられない小1の恐怖の思い出
かわいそうな母と無力な小2の私
両親の言葉と小3の私の葛藤
お姉ちゃんなんだからと我慢した小5の授業参観
自分がなく周りにばかり合わせていた中学生時代
彼氏や友達を心の拠り所にしていた高校生時代
友達が楽しそうにしている中、空虚感を感じて楽しめなかった大学生時代
社会へ出ても一人で抱え込む姿勢は変わらなかった
不満を溜めては爆発させていた結婚生活
ストレスから体にも症状が
初めての育児と強い思い込みが私を苦しめていた
帰宅してからバタバタと音を立てる夫にイライラ
今度は子どもが親の顔色をうかがう子に
仕事と育児と家事を完璧にこなそうとしていた
周りと比べて自分にダメ出しばかりしていた
依存しても拭うことができなかった人生への絶望感
必死で心について学びながら自分に向き合い始める
心理学を学ぶことで心が癒されていった
私が大きく変わるきっかけになったカウンセリング
私が変わることで家族にも変化が
言い合いをしている祖父母や親を刺激しないように気配を消していた幼少期
私は祖父母、両親、弟二人の七人家族の長女として生まれました。
父が起業し母も手伝っていたので、両親が忙しい時は祖父母が私たち姉弟の面倒をみてくれていました。
私が幼い頃、祖父が病に倒れ、半身不随の後遺症を抱え自宅で介護が始まります。
私が介護を手伝うこともありました。
話すこともできなくなってしまった祖父とのコミュニケーションはとても難しく、祖父自身も言いたいことが伝わらない・身体が動かせないストレスから祖母や父と衝突することが多く、家全体の空気も重く暗いものでした。
そういう時は、祖父母や父をなるべく刺激しないように静かにしていたり、別の部屋に移動したりして、できるだけ気配を消して被害が及ばないよう身を守っていました。
忘れられない小1の恐怖の思い出
祖父の介護や仕事のことで大変だった父は、休みもなく働いて、いつもピリピリ機嫌が悪く、いつ突然スイッチが入って怒鳴り出すのかわからず、家には緊張感が漂っていました。
私が今でも鮮明に覚えていることがあります。
家族で夕飯を囲んでいた時のこと。
テーブルに置いてあった醬油差しに誤って手が当たって倒してしまうと、父はものすごい剣幕で私を怒鳴り、外に締め出しました。
辺りには家もなく、山ばかりで明かりもない。
あまりの衝撃に状況を理解することができず、怖くて怖くて泣くことしかできませんでした。
父への恐怖は、より一層強まり、同時に、私が悪い子だから外にだされたんだ…、と自分を責めました。
かわいそうな母と無力な小2の私
仕事が思うように進んでいないと、父は母を怒鳴りました。
母は何も言い返さず、ただ下を向くばかり。
私はそんな父に、
〝お母さんは家事もやって仕事もやって、休みもなく働いているのに…〟
と、言い返したい気持ちが何度も喉まで上がってきましたが、恐怖でどうしても言うことができず、黙って見ていることしかできませんでした。
私はお母さんを助けられない…
自分の無力さと、まるで私が怒られているかのような惨めさを感じ、どんどん、自分はダメな子なんだ…と、自信をなくしていきました。
両親の言葉と小3の私の葛藤
父が口癖のように言っていたのが、「俺が子どもの頃はもっと大変だった。
お前たちもお母さんの言うことを聞いて家の手伝いをしろ」という言葉。
家でのんびりしていると悪いことをしているようで気が休まらず、忙しい両親や祖母に代わって長女である私がしっかりしなきゃ、と、誰かの役に立たなければ価値がない、という思いがいつの間にか芽生えていました。
また母にも、心配事を相談すると、
「気にしすぎだよ。」
「大丈夫だって。」
「そんなことないよ。」
「お姉ちゃんなんだから我慢しな」
と、受け止めてもらえないことが多く、私のことはわかってもらえない、と諦めのような絶望を抱くようになりました。
〝しっかりしなくちゃ、良い子でいなきゃ〟と、思う反面、〝もっと甘えたい、構ってほしい、わかってほしい〟という葛藤でグチャグチャになりながらも、我慢することが当たり前になっていた私は、そんな想いを必死で抑えようとしていたのです。
お姉ちゃんなんだからと我慢した小5の授業参観
ある日、学校の授業参観で親子で工作をする授業があり、弟も同じ時間帯だったので、母は弟を優先し、私の所には来てくれませんでした。
母は「ごめんね」と言ってくれましたが、私の気持ちには気付いてもらえませんでした。
他の友達が親と楽しそうに作業している中、一人で作業しているのがなんだか惨めで、弟を優先されたことがショックで何も言えませんでした。
両親や祖母から言われていたのも大きかったですが、私自身も”お姉ちゃんなんだから我慢しなきゃ” という気持ちが強かったですね。
同時に、“何かあっても気にしないようにしよう”とも思うようになり、だんだんと感情にもフタをしていくようになりました。
すぐそばに家族はいるけど、一人ぼっち…。
いつも不安で、憂鬱で、この世界は怖い。
当時の私は、いつもそう思っていました。
自分がなく周り合わせてばかりいた中学生時代
感情にフタをすることで、自分が何を感じているのか、何を考えているのか、本音がわからなくなっていました。
その上、失敗や恥をかいて笑われるのが嫌だったので、正解は何なのか、どう言えば間違いないかばかりを考え、必死で正解を求めていました。
しかし当時の私は、それが自分の考えだと信じて疑わなかったので、正しい答えを言っているはずなのに何か違和感がある、というモヤモヤをいつも抱えていました。
自分を表現できないことがコンプレックスになっており、表現できている友達と自分を比べては落ち込んでいました。
彼氏や友達を心の拠り所にしていた高校生時代
高校生になり、中学生から続けていた部活に入部しました。
元日しか休みがないような部活で、練習自体はとても厳しく大変でしたが、だからこそ部活に打ち込んだり、友達と他愛もない話をしたりふざけ合ったりする時間が、私にとっては嫌なことを忘れられる、とても楽しい時間でした。
また、彼氏の存在も私を支えてくれていました。
彼氏には甘えられたし、涙を見せることもできました。
誰も私の気持ちなんかわかってくれないと思っていましたが、友達や彼氏がいてくれたおかげで、心から笑えて、素の自分を見せることができる、そんな居場所を持つことができました。
家にはほとんどいなくなり、親との距離もどんどん遠くなっていきました。
友達が楽しそうにしている中、空虚感を感じて楽しめなかった大学生時代
社会へ出る自信もなく、やりたいことも見つかっていなかった私は、大学で見つけようと進学しました。
大学には夢や目標を持った人達がたくさんいて、何もない自分からしたら周りの友人がみな好きなことをしてキラキラ輝いているように見えて、自分を否定する気持ちもどんどん強くなっていきました。
そして次第に大きなコンプレックスになっていきました。
友人が楽しそうに笑っていても、心から楽しめない。
なんで私は…と、いつも人と比べては落ち込み、表面では笑っていても、心にはぽっかり穴が開いたような欠乏感を感じていました。
それでも何かを探そうとするでもなく、自分を責めることで日々を送っていました。
社会へ出ても一人で抱え込む姿勢は変わらなかった
何も取り柄がないと感じていた私は、大学を卒業後、地元へ戻り就職しました。
先輩が教えてくれることを必死でメモを取り、一度教わったことは何度も聞かず、メモを見ながら自力でやる。
私が仕事の邪魔をして、中断させるのは申し訳ない。
わからないことがあっても自分で調べ、なんとか解決する。
困ったことがあっても一人でなんとかする、人に負担をかけてはいけないという姿勢は社会へ出ても変わりませんでした。
不満を溜めては爆発させていた結婚生活
社会人になり数年後、学生時代から付き合っていた現在の夫と結婚しました。
家で孤独を感じていた私は、これでやっと安心できる私の居場所ができる、そう思いました。
しかし、現実はそうではありませんでした。生活スタイルや価値観の違いからイライラする場面が増え、それまで怒りという感情を人に感じたことがなかった私にとっては、同時に戸惑いを感じる瞬間でもありました。
特に休日は、夫が家でのんびりしている姿にイライラして、無性に腹が立ちました。
仕事をしながら、毎日休みなく家事もしているのに、なんで私ばっかりこんなに頑張らないといけないの!?
でも一方で、夫も平日は仕事で忙しいし疲れているから、私がやならきゃいけないんだ、と思う私もいて、いつもモヤモヤしながら仕事や家事をこなしていました。
しかし、やがて我慢の限界がきて爆発、一気に不満や怒りをぶちまける、ということを繰り返していました。
ストレスから体にも症状が
私はこんなに大変なのに、察しない夫は鈍感だ!言わなくてもわかってよ!という想いは私を苦しめました。
日々のイライラが爆発して喧嘩のすえ話し合い、なんとか家事を分担したり、ルールを決めてやっていましたが、ストレスは軽減されるどころか溜まる一方でした。
そんな生活を繰り返すうち、とうとう身体にも症状が…。
初めは蕁麻疹。お腹や背中一帯に出始めました。
そして次は円形脱毛症。
円形脱毛症は一か所治ったと思ったら、別の場所というように数回症状が現れました。
それでも私は誰かに相談したり病院へは通わず、自力でなんとかしようとしていました。
一緒にいても喧嘩ばかり。
辛い、苦しい、しんどい…どうすればいいかわからない…
何度も離婚が頭をよぎりましたが、夫のことを嫌いになった訳ではない。
イライラするけど、失うのは怖い。
そんな矛盾した想いを抱えながら、自問自答の日々を送っていたのです。
初めての育児と強い思い込みが私を苦しめていた
夫との生活が少し落ち着いてきた頃、長女が生まれました。
今となっては考えられませんが、当時の私には母乳で育てなければいけない、といった強い思い込みがありました。
母乳で私たち姉弟を育てたと、小さな頃から言い聞かされていた母の影響です。
しかし、そう思えば思うほど、母乳は出なくなり、焦りやプレッシャーから、次第に授乳がストレスになっていきました。
悩んだ末、思い切って母乳を止め、ミルクだけにすることにしました。
娘に母乳をお腹いっぱい飲ませてあげられない…、私は母親失格だ…。
申し訳なさと情けなさで何度も自分を責めました。
娘のことは可愛いけれど、育児が楽しいとは到底思えませんでした。
帰宅してからバタバタと音を立てる夫にイライラ
娘は敏感なところがあり、私が離れると起きてしまったり、少しの物音に反応してすぐに目を覚まして泣いてしまうような子でした。
せっかく寝かしつけたと思っても、夜遅くに帰宅する夫のバタバタという足音やドアを閉める音、食器やガサガサと何かを探す音のせいで目を覚ましてしまい、また寝かしつけるということの繰り返しで、疲れが溜まっていたのもあり、夫に怒りを直接言葉でぶつけていました。
仕事が忙しい夫には頼れない。
家事も育児も一人でこなさなければいけない。
子どもと二人っきりで話し相手もいない。
休憩もろくに取れない。
慣れない育児のストレスで、私の精神状態は限界まできていたのです。
しかし当時の私は、そんな状態にも関わらず相変わらず自分を責め、自己嫌悪になってはイライラして夫にぶつける、という負のループから抜け出せずもがいていました。
今度は子どもが親の顔色をうかがう子に
子どもがだんだん大きくなると、鳴き声やちょっとしたいたずらにイライラして、今度は子どもを怒鳴る、ということをしていました。
私は父のようにはならない。
ずっとそう思っていたのに、感情のままに怒鳴りつけ、威圧的に言うことを聞かせようとしていました。
子どもが将来困らないように、恥をかかないように、子どもの為にと思ってしてきたつもりの行為が、父と同じことを今度は私が子どもにして、子どもを怖がらせていたのです。
気付くと子どもは私と同じように、親の顔色をうかがう子になっていました。
仕事と育児と家事を完璧にこなそうとしていた
そんな子どもに気付きつつも、向き合うこともせず、慌ただしい毎日を送っていました。
仕事と家事育児を両立しながら、3人の子育て。
傍から見れば幸せなはずなのに、子どもの成長を見守るなんて余裕は全くなく、むしろイライラして自分の感情をぶつけてしまう。
なんてダメな母親なんだろう…と自分を責めてばかりいました。
思うような食事も作れない、掃除はできない、洗濯物は畳めず、床に放置されている。
家の中が物で溢れ、片付けもろくにできない。
唯一仕事をしている時だけが、育児や家事から解放されている時間でした。
しかし、そう感じることも子ども達に対して申し訳なくて、育児や家事から逃げているような気がして、さらに自分を責めていました。
全てが中途半端で情けなくて、そんな自分が嫌でたまりませんでした。
周りと比べて自分にダメ出しばかりしていた
なんで私はこんなにも余裕がなく、子どもにも優しくできないんだろう…
周りのお母さんは完璧にこなしているようで楽しそうで、子どもへも余裕を持って接しているように見えて、そんな周りと自分を比べては自己嫌悪。
なんで自分は…とダメなところにしか目がいなかくなって、またイライラしての繰り返し。
苦しい…。
誰にも相談できない。
頼れない。
辛い…。
全部自分でやらないと、と思っていた私は、どんどん自分を追い込んで、追い込んでいる状況にすら気が付きませんでした。
依存しても拭うことができなかった人生への絶望感
そんな悪循環から逃れるように、過食や買い物、スマホと、とにかく現実から目を背けようとして、モノや行為に依存していました。
空腹でもないのに、ただひたすら食べる。
洋服やバッグ、アクセサリーをネットで漁っては購入する。
スマホを片時も離さずただひたすら見る。
こうした行為をいくら繰り返しても心が満たされることはなく、むしろ自己嫌悪で、虚しさは募る一方でした。
楽しくない。
生きがいもない。
逃げ出したい。
逃げ出せない。
このまま人生終わるのか…
なんとも言えない不安や恐怖、絶望感に襲われるようになりました。
そんな生活を数年続け、また身体に異常が出始めました。
今度は子宮です。
精神的にも追い込まれ、夜眠れないことが増えたり、食欲が落ち、体重も減少しました。
このままでは何もかも失ってしまう…目の前にある幸せに気付けずに、家族がバラバラになってしまう…と、その時やっと本気で人生に向き合う決心がついたのです。
必死で心について学びながら自分に向き合い始める
とにかくこの苦しい状況から抜け出したい…その一心で、ネット検索したり本を読んだり、時間の許す限り情報を集めました。
私がアダルトチルドレンだと気付いたのは、その時でした。
しかし、まだしっかりと向き合うことには抵抗があり、アダルトチルドレンということは理解しつつも、どこかで受け入れられずにいました。
それよりも、心の仕組みや引き寄せの法則、宇宙の法則、潜在意識を学び、現実を変えようと日々ワークなどに取り組みました。
しかし、現実はなかなか変わりません。
自分の為にと学び始めましたが、家族関係を修復させたい想いが強かった私は、さらに追求しました。
家族の為になんとかしなきゃ。
その強い信念が私を行動に移させました。
心理学を学ぶことで心が癒されていった
心について私なりに学び、少しずつではありますが、穏やかに過ごせる時間が増えてきました。
そんな時ふと、家族でも友人でもない誰かに話を聴いてもらいたい…と漠然とした想いが沸き上がってきました。
でも、実際にそんな人はいないし、聴いてほしいときに気軽に話を聴いてくれる人がいたらどんなにいいか…とその時思いました。
だったら私がその人になろう!
そう思い立ち、専門的な学びを始めました。
心理学を学ぶうち、自然と心が癒されていくのがわかりました。
心の仕組みを知って、他の方の生い立ちや自分とは違う考えを聞くだけでも視野が広がり心が軽くなりました。
私が大きく変わるきっかけになったカウンセリング
そして何より『誰かに話を聴いてもらう』ことが私を大きく変えました。
私はどこかでずっと、どうせわかってもらえない、話を聴いてもらうのは迷惑だ、私になんか誰も興味がない、そう思っていました。
ですから自分の話をするのはすごく抵抗がありました。
そもそも何をどう話せばいいのかわからない。
こんな話を聞いて、みんなどう思うのか…。
うまく話せないし、言いたいことが伝わらないだろう。
そう不安になりながらもその時悩んでいたことを打ち明けました。
すると、頷きながら否定することなく聴いてくださり、予想に反した意外な反応に私はすごく感動したのを覚えています。
ここから少しずつ、想いを口にすることができるようになりました。
私が変わることで家族にも変化が
私自身の心が軽くなったことで、家族に対しても余裕を持って接することができるようになりました。
夫とは数か月会話がないこともありましたが、日常会話だけでなく、お互いの悩みを相談し合ったり、二人で食事や映画を観に行ったりと、当時では考えられないくらい仲が良くなりました。
子どもにも、ラブラブだよね~と冷やかされています笑(子供たちは嬉しそうです)
そして、子ども達の雰囲気が変わりました。
それまでは私の顔色をうかがって、どこかリラックスできていない様子でしたが、今では私に遠慮なく何でも話してくれますし、甘えることも増えました。
どこか我慢をさせていたと思いますが、子ども達それぞれが自分らしくのびのびといられているような気がします。
私自身も、感情が吐き出せるようになり、自分で感情の処理ができるようになったり、周りの感情に振り回されることなく、リラックスしてその場にいられるようになりました。
自分と周りを比べても仕方ない。
私は私。
私が私を信じてあげよう、そう思えるようになりました。
大丈夫だよ、あなたは一人じゃない、誰かを頼ってもいいんだよ
もし、あのまま苦しい生活を送っていたら、今ごろきっと心も身体もボロボロになり、家族はバラバラになっていたかもしれません。
そんな中で、現状から抜け出したい、変わりたいと行動し、自分に向き合ってきたからこそ今の自分があると思っています。
正直、平坦な道ではありませんでした。
自分に向き合うことはこれまでの自分の中にあった常識を見直し、無意識に行っていた行為や言動に目を向けていくことであり、かなりの時間やエネルギーを要するものです。
しかし、色々な学びを通して実感したのは、自分の中に安心感を育むことがどれだけ大切か、ということ。
安心感が育まれることで自己肯定感が育ち、チャレンジする意欲も沸き上がり、本来の自分との絆を取り戻し、自分の人生を生きられるようになります。
例え今、自分を信じられなくて、人も信じられなくて、人と仲良くなりたいのに人が怖くて、一人でいることを選んでしまう。
人とうまく関われず寂しさを抱えている。
一人で抱え込んでしまう。
自分を責めてしまう。
自分なりにいろいろ取り組んでいるのに、いまいち変われない、私はずっとこのままなんじゃないか、と半ば諦めに似た想いを抱えていらっしゃったとしても、諦めなければ必ず幸せな未来が待っています。
いつか必ず自分を信じ、人との関わりが温かく優しいものであることを実感できる時がきます。
それを私は伝えていきたい。
そう感じられる人を一人でも多く増やしたい。
そしてその幸せが周りの人にも広がり、やがて社会全体へと循環していく。
そんな世界を創っていくことが私の願いでもあります。
大丈夫だよ、あなたは一人じゃない、誰かを頼ってもいいんだよ
私はそういうスタンスで、あなたと向き合っていきたいと思っています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし、一緒に取り組んでいきたいと思ってくださいましたら、下記よりお進みください。